昭和五十七年六月二十四日 朝の御理解
                                                                                御理解 第三十四節
 「此所へ参っても神の云う通りにする者は少ない皆帰ってから自   分の好いやうにするのでおかげはなし神のいふ事は道に落とし  て了ひわが勝手にして神を恨むやうなものがある神の一言は千  両の金にも代へられぬ有難くうけて帰れば土産は船にも車にも  積めぬ程の神徳がある心の内を改める事が第一なり神に一心と  は迷ひのない事ぞ」
                                                             神様にお願いをする、と云う。一心に願わしてもらう、ね。それを貫かせてもらう。その願いの姿勢というものがいりますね。
私は、毎朝三時から、私の部屋の神様に御祈念をさしてもらいます。そして、こちらへ三時半に出て来るようにしております。あちらで御祈念をする事は、勿論、目覚ましのおかげを頂いた事を、ま、御礼を申し上げますが、その中で一番願いの芯になるのはーーーーー「どうぞ、毎朝、朝の御祈念に参拝をしてまいります信者氏子達が有難い目覚ましのおかげを頂きますように、また、その道中も、ね、無事御参拝が出来ますように、同時に、また、折角のお参りでございますから、ね、しっかり信心の構えを作ってお参りが出来ますように。沢山の修行生がおります、どうぞ、どうぞ、神様、朝の時間を大切にさしてください。有難い目覚ましのおかげを頂かしてやって下さい。」
これが、私の一番の願いなんです。ですからそれが、ね、なら、どのように表われてくるか、という事。この一心の願いが、もう第一番に、こうやって見ます。(望遠鏡で)
はあ、今日は修行生の方が少ないな、と、・・・・ま、例えばね、これは、なら、私の願い、というものを、神様が本当に聞いて下さっていないのではないだろうか、とは思いませ。神様の御都合もあろう、また、私の願い、祈りの力の足りない事もあろう。そういう例えば、願いを、ま、今日は初めて皆さんに・・はあ、親先生に祈られて目覚ましのおかげを頂いたんだなあ、私が目覚めたんぢゃない、ね、道中も無事でお参りが出来るのも、親先生の祈りによって無事お参りが出来たな、親先生の祈りであるところの願いであるところの、今日は、例えばどういう御理解を頂くだろうか、と、ま、心踊る思いで構えを作ってお参りが出来なければ相済まん。修行生の方達でもそうです、有難い目覚ましのおかげを頂いた。ね、ところが、祈られておるにも拘らず、自分な、なかなか朝起きが出来ない、ね、だからこれでは神様に相済まん事ながら、親先生に対しても相済まん。どうか、朝の時間をあのように大切にせよ、と言われるのだから、本気で朝の時間を大切にして下さい、というような祈りが、修行生の一人一人の心の中に念じられるようになり、祈念されるようになり、朝のお参りをなさる皆さんの一人一人の心の中に、私が参ろう、ではなくて、ね、祈られてお参りをしているんだ、という事の、祈り祈られる者の心が、こう、一つになる時に本当のおかげが受けられるんだ、と、私は信じております。ね、・・・・・自分の祈りが、祈っても祈っても、ね、それこそ石川啄木の詩ぢゃないけれども、ね、働けど働けど我が暮らし楽にならざりじっと手を見る、と、祈っても祈っても祈りが成就しない。そこで、じっと手を見る、ではなくて、自分自身の信心を、こ、見つめる、という信心。しかもそれが、ね、これが本当だ、と思う事を、も、今日、皆さんにお話せんでもいいわけ。してはならないかもわからい、私の祈りだから。
 私は、あんた達の事をこげん願いよるばい、と言うような、恩着せがましう聞こえてはならんから。けれども、私のそういう祈りと皆さんの祈りがね、こ 一つになる時、ね、私は、あの、祈り祈られる者の信心、というか、ね。おかげで今日も目覚ましのおかげを頂いた、祈られて今日もお参りができた。そこからね、私は、あの発足いたしますと、ま、これは、昨日もここでしたかね、御理解は神の言う事は、ね、忘れたり道に落としたりして了うて、ね、自分の好いようにしてしまう、好いような生き方をする、ね。
実験実証させて頂く事がでけないでおる。それこそ、船にも車にも積めぬ程の神徳があるのに、おしい事だ、という事になります。
 私は昨日、先代の光橋先生に、沢山書いた物を渡しておりますのを、それをきちっと取ってあったらしいです。昨日、それ、光橋先生が若先生のところに、こんなものがありました、と、言うて持って来て下さった中に、も、私が切々として、私が神様から頂く事を光橋先生に伝えとるわけです。もう、それは涙の出るように切々と言ってあります。
如何に私が、光橋先生の事を心にかけたり心配したり、その余り神様にお願いをする。お願いをするとと、お知らせを頂く、そのお知らせを書いて、みんな渡してるんです。ね。ところが、まあ、結局私が、私を信じてないわけでもないけれども、親先生は、あんなに言うけれども、と言うようなものがやっぱあったでしょう。それを実行してない。それで、神様がそれこそ、こういう事になったらね、  お前も難儀な事であると同時に、神も悲しいと言うておられる。ね。けれども、神様に悲しい思いをさせたんでは、それこそ神様に相済みまさん、ね。
こうやって、ま、掻き口説くように、なら、昨日もこの御理解で、今日もまたこの御理解という事は、神様が掻き口説くように私共に教えて下さる事ぢゃないでしょうか。
それには今、私が申します、例えば、朝の御祈念の一番の始まりの願いと言うものは、ね、私が三時に御神前に出ますから、まあだ皆さんは、目覚ましのおかげを頂こうか頂くまいか、と言う時に、ね、どうぞ有難い目覚ましがでけますように、朝の御祈念に参拝をしてくる氏子達が、道中も無事で、しかもお参りをしてくるなら、構えを作ってお参りがでけて、朝参りの、いうならば値打ちを、いよいよ生活の上に表していくように、というその祈りがですね、私が朝参りをしたのぢゃない、祈られて目覚ましのおかげを頂いた。祈られて、こうやって参っておるのだから、果たして私の心の中にどんな構えをもって、朝の御祈念に参っておるだろうか、と。
朝の時間を命として、これは特に修行生の先生方は、もう、朝は命と思え、と、私はいつも言う。朝の一時間は、もう、昼の三時間にも匹敵する。しかも、その修行に専念しておる教師が、または修行生が、朝の御祈念にも出てこれないようではどうするか、ではなくて、ね、祈られておるというその私の祈りが、まあだ届いてないという事もある。と、同時に、祈られておるという自覚ができていない、ね。そこから不思議に、祈られて目が覚めておる、祈られて朝起きができた、祈られてお参りができた、というふうに、段々思うてまいりますと、これはただお参りをしただけぢゃいけん、やっぱり構えを作って、ね。今日はどういう御理解を頂くだろうか、頂いたらこれを今日一日の信心の支えにもさしてもらおう、と、私は、この生き方で行ったら絶対おかげ頂く、と思うです、ね。    朝の御理解は、もう、あなたの為に下さってあるんだ、と、一人一人の上に、ね。ははあ、あれは誰に話ござるとばいの、ぢゃなくて、私一人の為に下さるんだ、という頂き方が一番本当です。
昨日天衣無縫という御理解の中から、ここを頂いたんですけども、確かに合楽の御理解は天衣無縫ですから、誰にも合うごと出来てるとです、ね。ですから、その、誰にでもぴったり合うように出来ておるのだから、私が一人で頂くという事になるのです、ね。私が一人で頂くという構えをもって、それを、なら、実験実証に移していく、ね。それを貫かせてもらうところにです、なる程、船にも車にも積めぬ程の神徳がある。
あんまり掻き口説くように言うと、かえっていかんのかも知れません。私が、久留米の光橋先生が毎朝、毎日、参ってくる参ってくると、夕べあんたが事をこう頂いたよ、と、いう事を言うだけではなくて帰って来た時にすぐメモをしといてから、それを渡す、ね。 何十年の後に、それを見せて頂いてです。本当に神様のお言葉というのものの間違いないのにおどろきます。ね。だから皆さんしっかり私の言う事聞かないけませんよ、と、ま、言わずにおれなくなってくるわけですけれども、ね、それを私が言わんでただ祈る、なら今日の御理解にも申します。ね、私が朝、目が覚めてから御神前に出たならまず、あなた方の目覚ましと、また、元気な心で朝参りが出来るように願いよる、と、いう事を、ま、今日は言うてしまったわけですけれどもです。ね。けれども本当にそこにおかげを頂いて朝参りが楽しうなったと、こう言うてもです、祈られてこういうおかげを頂いておるんだ、と、いう事になってくる時にお参りの姿勢やら構えやらがずっとずっと違ってくるのじゃないのでしょうか。私が参った、私が目覚ましたじゃなくてね、ま、これの事はいつも繰り返し言いよると、かえって効果がうすくなりますから、まあ、今日お参りをして来た方だけが、ハハア、親先生がこう私どんが事を祈っておるばいなあ、と、いう事を皆さんがわかって頂いたら祈られて今朝の目覚ましがある。そこから始まったらです、また、頂くなら、教えも祈られて私の為にある御理解とわかったらそれを丁重にしなければおられないものが、段々出来てくりゃせんでしょうかね。                                                    「 どうぞ 」